コラム

賢善精進の相

2025年12月
松本
 皆さんは、『賢善精進の相』という言葉を知っていますか?日常生活の中では、あまり耳にしない言葉だと思います。これは、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の教えを後世に正しく伝えるために、愛弟子である唯円が記した『歎異抄』に出てくる言葉です(著者に関しては諸説ありです)。詳細は割愛しますが、その第十三条において、善い人だけが念仏を唱える資格があり、そうでない(悪い)人は念仏者の集まる道場には入れない、と考える人への戒めとして、そのようなことを言う人こそ外見にはただ賢く善い行いに励むかのような姿を示し、内心には嘘偽りの思いを抱いているのではないか、という意味で用いられている言葉です。  

などと偉そうに言っていますが、かく言う私もこの言葉に出会ったのはここ数年のことです。私自身、浄土真宗(仏教)の熱心な信者という訳ではありませんし、それを深く学んでいる訳でもありません。要するに、今回このコラムで、『賢善精進の相』について宗教的・仏教的な意味であれこれ言いたいのではありません(というか、そんなことできません)。ただ、この『賢善精進の相』=外見にはただ賢く善い行いに励むかのような姿を示し、内心には嘘偽りの思いを抱いている、という言葉は、私が心理学を通じて分かりたいと願っている人間の心理と、密接に関係しているように感じています。

では、どのように関係していそうなのか。とりあえず、“賢く見せて偽る”と“善く見せて偽る”とを分けて考えたいと思います。まず、“賢く見せて偽る”ですが、例えば、友達と一緒にいる時に、自分の知らない言葉や話題が出てきたと仮定しましょう。その時に、この言葉を知らないとバレるとバカにされそうだとか、この話を知らないと言ったら場の雰囲気・空気を壊してしまいそうだと思って、知ったかぶりをしたり、何となく話を合わせたりしてしまう。正直に、素直に知らないと言えない。場合によっては、賢く見られるために(バカにされないために)、周囲に知識をひけらかしたり、相手を論破しようとしたりする。こういった状況が浮かびます。

“善く見せて偽る”で言うと、例えば、過去に経験したことのない新しいことや、これまでできなかったことに挑戦しようという気持ちが湧いたとします。そこに、あなたを心配した誰かが手伝ってあげるよ、代わりにやってあげるよと言ってきた。本当は自分ひとりでやってみたいけど、自分のことを心配して言ってくれている。その気持ちを踏みにじったら相手が嫌な気持ちになるかもしれないし、怒るかもしれない。それは嫌だから、言われた通りにしようかな。このように相手に流されてしまう、我慢して譲ってしまう。そんな場面が浮かびます。他にも、あまり興味の無いイベントや外出に誘われ、本当は興味がないし、断りたいけど、せっかく誘ってくれたんだからと思って、喜ぶふりをして参加するとか、誰もやりたがらない面倒な仕事がある時に、本当は自分もやりたくないけど、自分がやったら皆が喜んでくれるだろう、皆の役に立てるだろう、自分がやらないと皆が困るだろう、他の人にやってもらう方が心配だ、など思って積極的にその仕事に取り組むとか、友達と遊んでいる時に、相手が嫌な冗談を言ってきた。本当は傷ついているし、腹の立つ気持ちもあるけれども、それを口にすると盛り下がってしまいそうだから、あくまでニコニコ楽しげにしていようなどなど。個人的には善い人のふりの方が比較的イメージしやすい気がします。

他人に正直になれないというのは、結局のところ自分自身(の気持ち)に正直になれない、自分自身(の気持ち)を偽っていると言えるのではないかと思います。日々の生活の中で、そういうことを自分がしたなと感じることがよくあります。あるいは、その時は気づかなかったけれども、後になって自分を偽っていたと気づくこともあります。もっと言えば、今現在も気づかないまま、自他を偽り続けているのでしょう。もしかすると、皆さんの中にもこういったことに心当たりのある方がいるかもしれません。もちろん、嘘も方便という言葉があるように、知ったかぶりをしたり、話を合わせたりすることを、ただただ全部悪いと批判したい訳ではありません。同様に、相手の気持ちを汲んで動いたり、誰かの役に立とうとしたりするのは良くないことだ、と言いたいのでもありません。

今回のコラムで一番言いたいのは、賢く、善い人の振る舞いをする裏に、自分自身の無意識的な不安や恐怖が横たわっていないか、そこに注目していく(気づいていく)ことが大事だ、ということです。無意識的な不安や恐怖とは、賢く善い人でいないと人から嫌われるんじゃないか、相手から見捨てられるんじゃないか、友達が離れていってしまうんじゃないか、他者からひどく怒られるんじゃないか、といったものと言えそうです。もしかすると、そんな相手への怒りの気持ちも隠れているかもしれません。こういった不安や恐怖、そして怒りなどは、これまでの人生で受けてきた深いこころの傷と繋がっているのでしょう。だとすれば、無意識的な不安や恐怖、怒りを隠すことに縛れている自分に気づいていくことで、すなわち無意識を意識化していくことで、そこから自由になっていける。より自分らしくなっていける。以前のコラムで書いたように、私自身“自分らしく生きる”ことを目指していますし、カウンセリングを通して皆さんがそうなっていくことをお手伝いできればと思っているのですが、今回取り上げた『賢善精進の相』は、“自分らしく生きる”ことの難しさを、言い換えれば、人間は気づかないままにいろいろなことに縛られ、そのままの自分を受け入れることが困難になってしまうことを、端的に示しているように感じるのです。

最後に、こういったことがおよそ800年前に成立したと推定される『歎異抄』に書かれていることを考えると、時代や文化にかかわらず、人間の心理には一貫している普遍的かつ本質的な何かがありそうだな、あって欲しいなと感じます。そして、私自身そんな本質に少しでも近づけたら、触れられたらいいなと願っています。


 参考文献

  • 新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注 角川ソフィア文庫 2001
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