コラム

Mrs. Green Appleに見るカウンセリングの過程

2025年8月
土井
今回は、カウンセリングの過程や成り行きを共にさせてもらってきた中で、結果としての姿をよく説明してくれるように感じるMrs.Green Appleの歌詞を題材にお話しさせていただきたいと思います。 歌詞の理解は、私の個人的解釈なので、ファンの皆様にとって大切なものだということも重々理解しておりますが、一介のカウンセラーが述べている、個人の感想です、と思って読んでいただければ幸いです。
語りかける対象が自分である

現在飛ぶ鳥落とす勢いで、2年連続日本レコード大賞受賞、音楽アプリで1億回以上再生された楽曲が20曲以上あったり、天下のディズニーランドで流れる曲を制作したりと、光のような速度と輝きで活動されているMrs. Green Appleさんですが、すべての楽曲制作をされている大森元基さんの歌詞の世界観は大変独特なものだと、個人としても心理士としても感じるところがあります。
 
それはほとんどの曲の歌詞で語りかける対象が自分である、自問自答の歌詞だからです。星の数ほどの音楽作品がある中で、案外と多くの歌詞は、自問自答しつつも答えを求めて一部誰かに投げかける部分を残しますが、大森元基さんの歌詞は、自身の弱い部分から目を背けずに自分自身で見つめている内容が多いように感じます。(一方でたった一人でこれを続けていらっしゃる様は、ともすれば自虐的ですらもあるように感じてしまいますが、それは今回は扱わないことにします)

今回は、2023年のレコード大賞受賞曲「ケセラセラ」の世界観から考えてみたいと思います。
「ケセラセラ」とは、スペイン語で、「なるようになるさ」という意味だそうです。

その歌詞を一部抜き出すと、

-固めた殻で身を守って また諦める理由探すけど
-私ってそう 仕方ない程 自分よがり


自分自身の弱い部分を内省する様子が見られ、

-不幸の矢が抜けない日でも All right All right 食いしばっている

と、そんな中でもなんとか耐えている様子が分かります。

-些細な誰かの優しさで ちょっと和らいだりするんだよな
-ひとりぼっちだと気付いても 繋がりは消えるわけじゃない
  たまにがいい たまにでいい ちゃんと大切だと思えるから


そうした自問自答の中にも、自分だけではないことが視野に入り、

-ここを乗り越えたら 楽になるしかない

という少し先のことを信じて願っている歌い出しの末尾に回帰しているようです。

こうした過程はカウンセリングの経過をよく表しているように感じます。
悩みの渦中にいる間、自己否定から逃れるのは大変なことです。
そして悩みの渦中では、誰かに頼ることや助けてもらえると信じる心にヒビが入りやすく、固い殻にこもって耐えることが唯一傷つかない方法のように感じられることもあるのではないでしょうか。

心を病む人の多くは大変な頑張り屋さんだと感じます。
それは心身からSOSが出て、自分自身のコントロールを失うほど、強い不安や悲しみを耐え続けた人だからです。
それだけ頑張った人だからこそ、誰かとの繋がりに和らぐ気持ちが得られる体験をしてもらえたらと感じていますし、その方法の一つがカウンセリングであればと願っています。
生まれ変わるなら?
今回取り上げた「ケセラセラ」という曲の歌詞には、この曲を聴いた多くの皆さんにとって印象的に捉えられている一節があります。

-生まれ変わるなら? 「また私だね」

ただ、“生まれ変わるならまた私になる”、という内容の歌詞って意外と少なくないんです。

「Yellow Yellow Happy」ポケットビスケッツ
-もしも 生まれ変わっても また私に生まれたい

「We are the light」miwa
-生まれ変わっても 迷わず また私になりたいと誓ったなら

「My Will」大黒摩季
-もしも生まれ変わっても 私は私を生きたい

今が苦しく、自己存在に疑念がある時、とても信じられないような言葉でしょう。
また、この人生を、この苦しみをもう一回だなんてとんでもない!
そう感じてしまいそうです。

ただ、「ケセラセラ」の場合は少し意味が違いそうです。
ここで挙げた他の楽曲は、輪廻転生をした、現在の自分の生命が終わった次の身体での話のように理解できますが、「ケセラセラ」の場合は、こう続きます。

-バイバイ 無頓着な愛の日々 ファンファーレ 喜劇的な「つづきから」
 ベイベー 大人になんかなるもんじゃないけど ケセラセラ
 バイバイ 空っぽ器にヒビ ファンファーレ 明日も「つづきから」
 ベイベー 大人になんかなるもんじゃないけど ケセラセラ


輪廻転生ではなく、私は昨日までの自分の続きであり、明日は今日の続きであることを受け入れています。
昨日まで気にかけていなかったあたたかい感情もこの人生の続きではちゃんと扱えるように、渇いて傷ついていた自分でも壊れずにその続きとして生きていけるように、と思いを新たにし、
ネガティブなものを、精神的に大人になってかわせるようにとか、上手いこと見ないふりをするのではなく、なるようになるさ、と共に在ることを選択してこの曲の歌詞は終わります。
私としての一直線上にある人生
たいていどのカウンセリングや心理療法の専門書を開いても、カウンセリングや心理療法の終わりとは、以下のようなことが書いてあります。

一例として、河合隼雄先生の言を当てさせていただくと、カウンセリングの終結とは、

①自己実現という観点からクライエントの人格に望ましい変化が生じた
②訴えていた症状や悩みなど外的な問題についても解決された
③内的な人格変化と外的な問題解決の間の関連性がよく了解される
④以上の三点について、カウンセラーとクライエントが話し合って了解し合い、カウンセリングによってなした仕事の意味の確認ができる

このように、主観的・客観的にも問題解決が実感され、相談者には人格的な変化が生じるということが書かれています。
また、多くの文献に異口同音で終わりの形は千差万別であることも述べられています。
そうした先人の知見、言葉に誤りはなく、それは実際の情景です。

ただ、人格変化などの言葉を見ると、180度人生が変わったり、まるで別の存在に生まれ変わるような姿を想像してしまいますが、そういうわけではないように見えます。

あくまで私の見え方ですが、相談者の方にとって、自分が自分としての一直線上にある人生に対して、きれいな感情ばかりではなくても、そこには否定も肯定も共に在る状態を“受け止められる私”になって終えられているように感じます。

-ここを乗り越えたら 楽になるしかない

苦しみの渦中でそんなことは考えられなかったり、蜃気楼のように儚い願いに思えるかもしれません。
カウンセリングという関わりの中で、心理士やカウンセラーが少し人生の繋がりを持たせてもらうことによって、ここを乗り越えたら、という希望を確かに共有して、人生の続きに違った気持ちで踏み出せるように、カウンセリングの中で共に乗り切っていきましょう。
引用・参考文献
河合 隼雄 著,河合 俊雄 編 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫 2009